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「義経北国落ち」と「奥の細道」
今から800年前、義経は日本海沿いに北上し、最上川をさかのぼって平泉を目指しました。その502年後、俳人松尾芭蕉は、江戸(深川)を出発。 平泉を経由し最上川を下り日本海沿いを南下し、美濃(岐阜県)まで156日間の旅をしました。歴史上の二人が、時代を超えて奇しくも同じく最上川を通ったことに、歴史のロマンを感じます。
 
おくのほそ道を行く ~芭蕉の足跡を巡る旅~

芭蕉山刀伐峠越えの図「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人也…」で始まる『おくのほそ道』は、紀行文学の名著として知られています。芭蕉が旅に出た元禄2年(1689)は、西行の没後500年にあたる年でした。みちのくの歌枕に憧れた西行の旅を追体験するため、芭蕉は門人の曾良をともなって、3月27日(陽暦5月16日)、江戸深川の採茶庵を出発。全行程約600里(約2,400㎞)、日数約150日間の旅に出ました。みちのくの福島、宮城で歌枕の地を訪ね、奥州平泉で藤原三代の栄華と義経の最期を偲んだ芭蕉が、出羽路(山形県)に入ったのは5月15日(陽暦7月1日)のことでした。

 
芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ主な句
 元禄2年(1689年)5月4日(陽暦6月20日)
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仙台 「あやめ草 足に結ん 草鞋の緒」

 5月9日(陽暦6月25日)
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松島 「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」 (曾良)

 5月13日(陽暦6月29日)
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平泉 「夏草や 兵どもが 夢の跡」
      「五月雨の 降のこしてや 光堂」
 
 5月15日(陽暦7月1日)
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堺田・封人の家 「蚤虱 馬の尿する 枕元」
      芭蕉の足跡 詳細ページ1へ

 5月17日(陽暦7月3日)
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山刀伐峠 「高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし・・・」
     
芭蕉の足跡 詳細ページ2へ
 
 5月17日(陽暦7月3日)
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尾花沢 「涼しさを 我宿にして ねまる也」 
        「眉掃きを 俤にして 紅花の花」
        「這出よ かひやが下の ひきの声」
 
 5月27日(陽暦7月13日)
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立石寺 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」

 5月28日(陽暦7月14日)
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大石田 「さみだれを 集めてすずし もがみ川」

 6月1日(陽暦7月17日)
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猿羽根峠
     芭蕉の足跡 詳細ページ3へ

 6月1日(陽暦7月17日)
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新庄
      芭蕉の足跡 詳細ページ4へ

 6月3日(陽暦7月19日)
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最上川 「五月雨を 集めて早し 最上川
     
芭蕉の足跡 詳細ページ5へ
      芭蕉の足跡 詳細ページ6へ

 
 6月3日(陽暦7月19日)
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羽黒 「有難や 雪をかほらす 南谷」 
      「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」
 
 6月6日(陽暦7月22日) 
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月山 「雪の峰 幾つ崩れて 月の山」
 
 6月7日(陽暦7月23日)
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湯殿山 「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」
 
 6月13日(陽暦7月29日)
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酒田 「暑き日を 海に入れたり 最上川」
 
 6月15日(陽暦7月31日)
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吹浦 「あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み」
 
 6月16日(陽暦8月1日)
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象潟 「象潟や 雨に西施が 合歓の花」 
      「汐越えや 鶴はぎぬれて 海涼し」
 
義経弁慶伝説 ~語り継がれる義経・弁慶浪漫~

最上の地に残る、義経と弁慶の足跡を辿る。
最上地方には、義経・弁慶に関する伝義経大橋説が数多く残っています。平安時代末期、平氏追討に大功のあった義経は、兄頼朝と対立し追われる身となります。 西国へ向かう舟が嵐で押し戻されたり、吉野山では僧侶たちの反対に合います。安住の地は以前世話になった藤原秀衡(ひでひら)が治める奥州平泉しかないことから、北国行きを決心します。全員が山伏のいでたちをして、越前国(福井県)から日本海沿いに北上し、文治3年(1187)鼠ヶ関から県内入りします。鶴岡市を経由し、北の方が身重だったため、弁慶だけが羽黒山を代参します。一行は、清川で弁慶と合流し、舟で最上川をのぼります。


白糸の滝 最上川遡行 「義経記」巻第七 判官北国落ち
舟は雪解けの増水で、のぼるのに苦労しました。 白糸の滝を見て北の方が
   「最上川瀬々の岩波堰き止めよ 寄らでぞ通る白糸の滝」 
   「最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝」
という和歌を詠みました。やがて、「鎧の明神」「冑の明神」を拝み、「たかやりの瀬」の難所を上り、「たけくらべの杉」を見て、矢向の大明神を伏し拝み、合川の津(現在の本合海)に到着しました。



産湯 亀割山で北の方お産 「義経記」巻第七 判官北国落ち
亀割山を越える途中、北の方のお産が近くなったので、大木の下に皮を敷き、お産場所と定めて宿にしました。お産が始まり、北の方が「水を」と言ったので、弁慶が谷を目指して降りていき、戻ってみると北の方は息も絶え絶えでした。弁慶が汲んできた水を飲ませ、南無八幡大菩薩に祈ったところ、無事に出産することができました。産まれた子どもは、亀割山の亀と、鶴の千歳になぞらえて「亀鶴御前」と名づけられました。(最上地域では亀若丸と呼ばれています)。まだ平泉までは遠く、道行く人に疑われてはいけないので、篠懸(すずかけ・山伏が衣服の上に着る麻の衣)で包み、赤ん坊を笈(おい)の中にいれました。山を下るまでの3日間、一度も泣かなかったのは不思議です。その日は「せひの湯(現在の瀬見温泉」」で一日中疲れた体を癒しました。次の日は、馬を用意しそれから小国郷を出て栗原寺(宮城県)に向かいました。