「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人也…」で始まる『おくのほそ道』は、紀行文学の名著として知られています。芭蕉が旅に出た元禄2年(1689)は、西行の没後500年にあたる年でした。みちのくの歌枕に憧れた西行の旅を追体験するため、芭蕉は門人の曾良をともなって、3月27日(陽暦5月16日)、江戸深川の採茶庵を出発。全行程約600里(約2,400㎞)、日数約150日間の旅に出ました。みちのくの福島、宮城で歌枕の地を訪ね、奥州平泉で藤原三代の栄華と義経の最期を偲んだ芭蕉が、出羽路(山形県)に入ったのは5月15日(陽暦7月1日)のことでした。
最上の地に残る、義経と弁慶の足跡を辿る。最上地方には、義経・弁慶に関する伝説が数多く残っています。平安時代末期、平氏追討に大功のあった義経は、兄頼朝と対立し追われる身となります。 西国へ向かう舟が嵐で押し戻されたり、吉野山では僧侶たちの反対に合います。安住の地は以前世話になった藤原秀衡(ひでひら)が治める奥州平泉しかないことから、北国行きを決心します。全員が山伏のいでたちをして、越前国(福井県)から日本海沿いに北上し、文治3年(1187)鼠ヶ関から県内入りします。鶴岡市を経由し、北の方が身重だったため、弁慶だけが羽黒山を代参します。一行は、清川で弁慶と合流し、舟で最上川をのぼります。
最上川遡行 「義経記」巻第七 判官北国落ち舟は雪解けの増水で、のぼるのに苦労しました。 白糸の滝を見て北の方が 「最上川瀬々の岩波堰き止めよ 寄らでぞ通る白糸の滝」 「最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝」 という和歌を詠みました。やがて、「鎧の明神」「冑の明神」を拝み、「たかやりの瀬」の難所を上り、「たけくらべの杉」を見て、矢向の大明神を伏し拝み、合川の津(現在の本合海)に到着しました。 亀割山で北の方お産 「義経記」巻第七 判官北国落ち亀割山を越える途中、北の方のお産が近くなったので、大木の下に皮を敷き、お産場所と定めて宿にしました。お産が始まり、北の方が「水を」と言ったので、弁慶が谷を目指して降りていき、戻ってみると北の方は息も絶え絶えでした。弁慶が汲んできた水を飲ませ、南無八幡大菩薩に祈ったところ、無事に出産することができました。産まれた子どもは、亀割山の亀と、鶴の千歳になぞらえて「亀鶴御前」と名づけられました。(最上地域では亀若丸と呼ばれています)。まだ平泉までは遠く、道行く人に疑われてはいけないので、篠懸(すずかけ・山伏が衣服の上に着る麻の衣)で包み、赤ん坊を笈(おい)の中にいれました。山を下るまでの3日間、一度も泣かなかったのは不思議です。その日は「せひの湯(現在の瀬見温泉」」で一日中疲れた体を癒しました。次の日は、馬を用意しそれから小国郷を出て栗原寺(宮城県)に向かいました。